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母の思い出

母の笑顔は永遠に

昨日11月12日は母の命日だった。
早いものでもう34年になる。
大腸癌が中脳に転移し、1年間の在宅での半昏睡状態から眠るように逝った。

母は東京生まれの東京育ちである。
東京府立第三高等女学校(麻布の三女)を卒業し、
戦時下に富山に疎開、魚津の測候所に女性気象官として勤務した。
終戦翌年の正月、日本カーバイトに勤めていた祖父が急性肺炎で急逝し、
祖母と二人の妹と共に祖父の実家のある福岡県大牟田市に食料疎開した。

祖母と三姉妹の女ばかりの4人で始めたのが、実家の土地のあった栄町駅前の菓子店兼喫茶店である。
何も経験のないサラリーマンの家庭の女たちがよく出来たものだと思うが、それがこの時代なのだろう。

三姉妹は駅前の美人三姉妹として有名だったそうだ。
多分当時珍しかった東京返りの三姉妹だったので、そう言われたのだろう。
その三姉妹の店に足繁く通い、母と結婚したのが父である。
当然、三姉妹なので養子であるが、たいそう大切にされたと父が生前話していたのを覚えている。

私自身の母の記憶は、5才くらいからしかない。
優しい母だったが、時々子供にとっては理不尽なくらい厳しかった。
いや、厳しかったのは祖母かもしれない、初めての男の子だったので自然とそうなったのだろう。

幼い頃、毎夜枕元で母は子守歌を歌ってくれた。
ブラームスから五木の子守歌まで・・・
幾つもの唄を、耳元で歌ってくれた。
おかげで、今も私の子守歌のレパートリーは広い。

そんな母を私は何度か泣かせた。
けっして悪い子ではなかったと思うが、よい子であることに疲れると時々私は暴走した。
よく覚えているのは、大学受験の時、当然進学するはずの大学へ進学せず、慶応大学に進学したときだ。
今、思えば本当に幼稚な反抗なのだが、当時の私は屁理屈をこねて親を困らせた。

「お母様は、僕が慶應に行ったので嬉しくないのでしょう」

そう見栄を切った私の顔を見て、母は黙って涙をこぼした。
実際に受験につきあってくれたのは母なのだから、本当にひどい息子だったと思う。

そんな母が心から喜んでくれた時がある。
熊本大学医学部に転身し、自宅の大牟田から1年間熊本に通学したときだ。
母は、毎日ニコニコし、私にこう言った。

「治道さんが、帰ってきてくれて本当に嬉しい」

早朝にいそいそと朝食を作り、私を見送った。
幸せな1年間だった。
そのうち、母は病気になり、手術を受け、闘病のあと旅だって逝った。

人生は不公平だ。
親不孝の私が、孝行娘の母の歳を超え、のうのうと生きている。
いや、すでに父の歳も超えてしまった。

でも、たった一ついいことがある。
私の中の母はいつだって、笑顔で私を見送った若い母のままだ。

お母さま、本当にお世話になりました。



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by ccr-net | 2015-11-13 23:22 | その他 | Trackback
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